昭和41年09月29日 朝の御理解



 今日は、教祖の神様ご生誕のお日柄で、生誕のお祭り生誕祭に続いて様々な、まぁ椛目的行事がございますわけでございます。本当にこの教祖の神様のご信心振りと言うか、お人柄と言うか、そういうお人柄、又はご信心振りと言うものが、私共の信心の上にも、やはり現れてこなければならない。御道の信心というよりも、教祖の神様のご信心の生命であったのが、何かと言うとやはりこの実意丁寧であったと。実意丁寧神信心でおありになったという事。
 そこで、まぁせめてその教祖の神様の、そうしたお人柄を忍ばせて頂いて、本当にあの実意丁寧の限りと、まぁ自分で思われる信心を日々、まぁ身に付けていかせて頂く稽古をしておるわけでございますけれども。もう本当に目の粗い事でございますから、せめて今日は本当に、実意丁寧を目当てとさせてもろうた一日でありたい。そしてご生誕のお喜びに代えたいというふうに、まぁ思うんです。
 私はここに、教祖の神様のご信心によって、頂かれたところの道である、天地に通わせて頂けれる、天地の道理に基づいた生き方と言うものが、私共の信心の、いわゆる信条ともなり、それが自分の身に付いてこなければ、私は金光教的本当のおかげにはならないとこう思う。あん時にはあんな奇跡的なおかげも頂いた。この時にはこげな広大なおかげも頂いたと言うてもです。教祖の神様が本当にお受けになられた、人間の真実の幸福と言うことには、なってこないと思う。
 ですからどうでも実意丁寧神信心が、身に付いてこなければならない。御道の信心のいわゆる、看板のように言われておる実意丁寧。今朝私その事について頂きますことにね、どうも実意丁寧が看板のような感じになっておるということですね。そして実際は看板は実意丁寧の看板を上げておるけれども、中身は実意丁寧をいわば売っていないようなものだと言う様な事を頂くですね。金光教のいわば何を売るか。
 もし商売にするなら。実意丁寧が売り物だという、実意丁寧の看板を上げておるけれども、実意丁寧を中を見た所が、実意丁寧はなっていない。だからそのお互いが実意丁寧は、看板ではなくてですね。もうその鑑札のようなものだ。ね。もうここに実意丁寧と言う鑑札を持っておらなければです。本当のおかげの、いわば要所要所は通っていかれないのだと。という様にねならなければ、金光教祖的なおかげになって来ない。ね。
 天地が自由になると仰せられると、仰られるその天地が自由になる様な。ね。本当におかげ頂かせなければやまんと言う、天地の親神様のそういうお働きをです、ね。実意丁寧と言う信心をもって、頂いて行こうと言うのである。御道の信心の看板は実意丁寧。そして実際ほんなら、買いに行くと実意丁寧は何も無い。ね。いや形の上には実意丁寧を、看板上では売っているようにあるけれども、中身は実意丁寧ではない。ね。何かしらがをつけておる時だけは、実意丁寧のようであるけれども、もう裏に行ったら、
 実意丁寧の実の字も無い。ね。いわゆる裏表がある、これでは、やはり実意丁寧を買い来る人の信用を売ることは出来ない。勿論天地の親神様のご信用を得ることは出来ない。どうぞ信心しておかげを受けてくれよという、その信心が実意丁寧神信心であるならです。私共はその実意丁寧と言う、銘々が鑑札を持っておらなきゃ。先ず鑑札を受けなければ、ね。その鑑札を持って、いわば要所要所を通り抜けさせて頂いて、初めて御道の信心で無からなければと言う様なおかげは、受けられないと私は思う。
 実意丁寧の鑑札、ね。実意丁寧神信心という事は、どう言う事かと。実意丁寧と言う事は、やはり形だけが実意丁寧しとれば、あれはなかなか実意丁寧だということ。それに神信心が付いておらなければならぬ。ほんなら神信心とはどういうことか。ね。私は表も無からなければ裏も無いという信心だと思う。それが信心なんだ。ほらもう私共が知ってる限りでも、そらなるほどあの本部辺りにお参りしますと、その本当にあの金光様のご信心は、実意丁寧だなぁと言う様なものが。
 そのお参りしておるご信者さん全部の中にも現れておるし、特にその道の教師と言われておる方達の上には、本当に実意丁寧が本当にそういう風なものが感じられるです。ところが、あれだけ実意丁寧な先生のところで、どうして人が助からんじゃろうか。あれだけ実意丁寧の先生のところで、どうしてゴヒレイが立たんじゃろうか。という様なのが、もう、あまりにも多いのですよね。私は、実意丁寧の看板だけ上げてござるばってん。実意丁寧の中身が無いからだと思うですね。
 やはり実意丁寧が本当に無い。実意丁寧神信心が出来てない。だからお広前では立派な、御結界では立派な様であっても、ね。いや表だけは立派であっても、裏が実意丁寧神信心でないからだと私は思うです。今日の御理解を頂いてそれを痛感致します。ね。皆さん椛目に参ってきて、椛目であの人がおかげ頂かっしゃらん筈はないとばってんね。あの人の言わっしゃる事、さっしゃる事。本当におかげ頂かん筈はなかばってんねと、こういう様な人がおかげが受けられんと言うのは、それと同じこと。
 うちに帰ったら、もう実意丁寧神信心は、どこへやらと言う様な事になっておると言う事なんです。ね。ですから裏ではやっぱり、紋付袴着けとかんならんと言う意味じゃないですよ。ね。ここで椛目で裃着けておるから、家に帰っても裃着けとかんならんという事はないですよ。そら着流しでもかんまんのです。形の上においては、ね。いわゆる神信心がです、実意丁寧でなからにゃならんという事です。ね。
 だから、御道の信心の看板が、いうなら実意丁寧と言う看板を掲げておるようなもの。あそこは金光様の先生、金光様のご信心さっしゃるからと。違うというのは、一家中の者が何とはなしに、実意丁寧ということが、そうでなからなきゃならん。なるほど実意丁寧だと。ところがその実意丁寧だけれども、もしおかげが受けられんと言うならばです。いわゆる中身に実意丁寧を売ってないということを悟らせて貰って。ね。いよいよ実意丁寧が自分のやはり生命、命とまでなって来る様なです。
 おかげを受けなければいけない。実意丁寧と言う、いわば鑑札を持っておらなければいけない。今日は生誕のお日柄に、当たらせて頂くのでございますから、その教祖の神様の、お喜び頂けれるような一日でありたいというのが、ここの敬老会ですね。いわゆる敬親会の方達をお招きして、皆んなで何とかお年寄りに喜んで頂こうという、ま、催しもあるわけなんでございます。ね。ですからその私共も本当にその中身がです。実意丁寧を一つ、旨とした一日で、特にありたい。
 そして実意丁寧の、いわば鑑札と言うのはこう言う事をもって、成程これでいきゃおかげを頂けるだろうと言った様なものをです、ね。何とはなしにこう身に付けて行きたい。又体験させて頂きたい。成程実意丁寧すりゃこんなにも通うものだなと言う事をです、体験していきたい。ね。どうぞ実意丁寧は、看板でも構いませんから、中身もやはり、実意丁寧を持たなければならない。ね。実意丁寧神信心という事は、ね。形だけではなくて、内容も。それになる事が、実意丁寧神信心だと言う事。ね。
 それを私共日々の生活のです、ね。本当に生き抜かせて頂く。信心生活をさせて頂き抜かせて貰う、その手形とでも申しましょうか、ね。鑑札と言うものでなからなければならん。その鑑札さえもっときゃ通られんことは無い。おかげが頂けれるという、確信が持てれるというのは、ね。実意丁寧の私は鑑札を持たなければ、そういう確信は生まれてこないという風の思うのですよ。どうぞ、ね。とりわけ今日はと言う訳じゃないのですけれど、そういうお日柄にあたって、特に実意丁寧をもう一遍私共は、頂き直させて頂かねばならんのじゃなかろうかと思うのです。
   どうぞ。